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ヨーロッパ紀行の総集編Ⅲ 人物伝(エリザベート21 シシィの旅①) エリザベートの旅には、幾つかの目的があった。 一番多いのは公用の旅だが、イングランド・スコットランド、地中海、ハンガリーだけでなく、命を落とした最後のスイスの旅も公用の旅であった。 療養の為に温泉や皇帝と一緒にコートダジュールに避寒に出掛け、また健康維持の為にスイス等でハイキングを頻繁に行った。 その他には母、姉妹と故郷や旅先で落ち合っていた。 時々、衝動的に旅に出ることもあったが、それはパパロッチを避けるためにお忍びの旅だった。 1 1850年代の旅 1) 公務 (1) チェコ・プラハ エリザベートは1884年4月に結婚したが、その翌々月に、オーストリア帝国の支配地のボヘミアとモラヴィア(チェコ)に、フランツ・ヨーゼフ皇帝に伴い御幸(公用)した。 目的は領民への結婚報告と視察だった。 1854年6月3日プラハへ到着すると、エリザベートは修道院、孤児院、病院、学校を回った。 歓迎式典のとき、シシィの美しさは、プラハの人々の心を溶かし、熱狂させた。 「シシィ、今日の式典はとても盛り上がっていたね。 反乱を鎮圧したばかりだから、もっと冷淡な出迎えを予想していたのだけど、皆、君の顔をみて狂喜乱舞していたね」 「フランツィ、多くの人が喜んで歓迎してくれて、とても嬉しいわ。 しかしエリザベートは微熱があり、体がだるく、食事が喉を通らなかった。 「でも、胸がムカムカして、気分が悪いの。 明日の式典に臨席するのは、無理かもしれないわ」 「シシィ、大丈夫かい?」 「何か変なの!」 御免なさい。これ位以上、中欧を乗り物に乗って旅を続けるのは無理みたいだわ」 「シシィ、それなら直ぐにウィーンに戻って、お医者さんに診て貰いなさい。 私は、このまま、スケジュール通り、中欧をまわることにするよ」 ウィーンに戻ったシシィは、侍医のゼーブルガー博士の診断を受けた。 「皇后殿下、おめでとうございます。 妊娠されています。 胸がムカムカするのは、悪阻(つわり)でございます」 「えっ…!! 結婚してから、1ヶ月と少ししか経っていないの、もう妊娠しているの? まだ16歳なのに、子供を身籠るなんて思いもしなかった。 信じられないわ」 そこで大事をとり、皇帝をボヘミアに残し、エリザベートだけでウィーンに戻ることになった。 ウィーンで医者の診断を受けると、妊娠であることが発覚した。 そして1855年3月5日に、長女ゾフィー・フリーデリケ・ドロテア・マリア・ヨーゼファ(1855–1857年)を出産した。 (2) ミラノでの白手袋 その後、1866年の年末に北イタリアで反乱の火種が燻り始めていたので、損オ対応に、フランツ・ヨーゼフ皇帝夫妻はヴェネツィアとミラノを訪問した。 ミラノ・スカラ座で皇帝夫妻歓迎オペラが開催されたが、貴族は誰も劇場に訪れず、観客席に座った貴族の召使いたちは皇帝夫妻を無視した。 エリザベートは孤児院、病院、修道院を慰問訪問した際に、市民の不満の原因を探った。 そして、退役軍人や貧困者、孤児、病人が悲惨な生活を送っていたことが分かった。 1848年にミラノ蜂起がおきた際に、反乱に加勢した容疑で、多くのイタリア人のオーストリア軍の軍人たちが財産を没収され、その後、軍人年金の支給が打ち切られたからだ。 【ミラノの5日間】 そこで多くの退役軍人が生活苦に陥り、また束縛された自由のない社会に失望した北イタリア人はオーストリア帝国を恨み、反乱の芽が出始めたのだった。 皇帝夫妻が馬車で公園の前を通りかかった時、一人の退役軍人が馬車を向かって叫んだ。 退役軍人は痩せこけており、襤褸の服を身に纏っていた。 「私の訴えをお聞き届け下さい!」 エリザベートは馬車の窓を開け、退役軍人に「どうしたのですか?」と尋ねた。 するとその老人は、無実の容疑で打ち切られていた軍人年金の支払いの再開を嘆願した。 エリザベートは皇帝から白い手袋の片方を受け取り、その退役軍人に手渡し、明日年金事務所にこの手袋を持参すれば、年金を支払うように通知しておきますと告げた。 翌日、その退役軍人が年金事務所を訪れると、年金の支払い申請が受理された。 新聞社は、エリザベートを追いかけ、彼女の慰問の模様を逐次報道していたが、皇帝の手袋を手渡す瞬間を目撃していた。 その報道がミラノを駆け巡ると、皇帝夫妻はミラノの守護聖人のような存在になった。 その後、ミラノ・スカラで観劇した際には、ミラノ中の貴族が集まり、皇帝夫妻を祝福した。 エリザベートの活躍で、北イタリア人はオーストリア皇室を親愛するようになり、反乱の火種が消え去った。 (3)ハンガリーでの長女の死 ハンガリーでも反乱の火種が燻り始めた。 1867年に皇帝夫妻は、二人の娘(ゾフィーとギーゼラ)を連れて、ブダペストを訪問した。 皇帝がエリザベートをハンガリーに同行させたのは、皇帝がハンガリー人を虐待したので、評判が悪かったので、エリザベートに交渉を温和な雰囲気にするためだった。 また子供を同行させたのは、オーストリア皇室がハンガリー貴族を信頼している明かしとなるからだ。 皇帝夫妻のミラノでの同行はハンガリーに届いており、エリザベート皇后に拝見すると、ここでも反乱の火種が消え去った。 公務は成功したが、長女ゾフィーが疫病に罹り、ハンガリーの地で死去してしまった。 初めてのハンガリーの旅は、エリザベート皇后にとって悲しい思い出となった。 また姑ゾフィーがエリザベートをウィーンの宮殿に閉じ込めたので、エリザベートはハンガリーを再訪する気概を失った。 2) 初めての里帰り 1955年6月に、皇帝は長期視察の旅に出ることになり、長女ゾフィーの子育てを許されないシシィは、辛くて寂しい宮廷を離れて、バイエルンに一人で里帰りした。 実家のポッセンフォーフェンに戻ると、シシィは久しぶりに自由を取り戻し、思い出深い景色や自然の中で遊び、傷心を癒やした。 【実家のポッセンフォーフェン邸宅】 3) 新婚旅行 結婚後、フランツ・ヨーゼフ皇帝はクリミア戦争対応で新婚旅行に行くことができなかった。 そのクリミア戦争は1856年3月30日に終結した。 そして、1856年7月15日、シシィは2人目の娘ギーゼラを産んだが、長女ギーゼラ同様、ゾフィー同様、ギーゼラの養育権も姑ゾフィーに奪われ、エリザベートの精神は崩壊寸前の状態だった。 そこでフランツ・ヨーゼフ皇帝は、1856年9月に、オーストリア南部ケルンテン、シャタイアーマルク地方へ、新婚旅行に出掛けることにした。 皇帝夫妻はアルプスの高原や氷河で、馬を走らせたり足で登ったりして自然を満喫した。 【シャタイアーマルク地方】 2 1860年代の旅 1) 療養の旅 (1) マディラ島での療養 1857年の長女ゾフィーの死後、エリザベートは次女ギーゼラと1858年に誕生した長男ルドルフ皇太子の養育権を姑ゾフィーに奪われただけでなく、1659年にサルデーニャ戦争でナポレオン3世に敗北したフランツ・ヨーゼフ皇帝は居たたまれなくなり、年上の人妻と不倫した。 エリザベート皇后は宮廷に軟禁され、姑ゾフィーから嫁いびりをされ上、夫に不倫され、神経衰弱になり、運動不足と拒食症がたたり重度の肺炎になった。 担当医から、1860年のウィーンの寒い冬を越すことはできないと告知され、療養と避寒の為に1860年11月17日にウィーンを出立にマディラ島に向かった。 精神的なストレスから解放され、また温和な天候と新鮮な食材と適度の運動が、エリザベートを死の淵から連れ戻した。 療養を終え、1861年4月28日にマディラ島を出港し、5月19日にウィーンに戻った。 これは療養の旅だったが、療養に同行した廷臣たち(ルドルフ・リヒテンシュタイン(Rudolf・Liechtenstein)公爵やハンガリー貴族のイレム・ フニャディ伯爵、ラズロ・シュパザーリ伯爵)が同行し、敵国のフランスやイタリアの情勢を探り、またウィーン皇室、イギリス王室、ギリシャ王室、ポルトガル王室との様々な折衝をした。 特に、ルドルフ・リヒテンシュタイン公爵は1838年4月18日生まれで、エリザベートより4ヶ月若い。 【ルドルフ・リヒテンシュタイン公爵】 エリザベートの療養に1860~1862年まで付き添ったが、その後、オーストリア皇帝の会計役になり、1896年には宮廷の大家令に就任し、1998年にはエリザベートの暗殺事件の際の一切を取り仕切った。 つまりマディラ島への旅は療養が主目的だったが、同時に、将来のオーストリア帝国を担う若い廷臣たちが外交修行の場であり、他国での諜報活動を実施していた。 (2)コルフ島での療養 1661年5月19日、半年ぶりにエリザベートはウィーンに戻ってきたが、エリザベートを取り巻く環境は何一つ好転していなかったため、帰国してから4日目には、再び、咳と発熱に見舞われた。 5月29 日皇帝 と共にラクセンブルクに移ったが、症状は回復しなかった。 医師が皇帝に告げた。 「これは、死病の結核です。 まだ、温かいところでの療養が欠かせません」 医師がシシィに当時は結核の診断を下したので、再び療養の旅にでることになった。 1961年6月 21 日に、エリザベートは皇帝の見送りを受けて、再び療養のためコルフ島に向かった。 先ずは、陸路でトリエステ(ヴェネツィアの隣町)に行き、義弟マクシミリアン大公が居住しているミラマール宮殿から出港し、6月27日にコルフ島に着いた。 【コルフ島】 1861年10月13日に、フランツ・ヨーゼフ皇帝がエリザベートをコルフ島まで迎えに来た。 そして、エリザベートを船に乗せて、ミラマール宮殿経由で、10月26日にヴェネツィアに到着した。 しかし子供たちの養育権問題が解決しなかったので、ウィーンには戻ろうとしなかった。 【ヴェネツィア】 コルフ島への旅の主目的はエリザベートの療養だったので、姉へレーネが付き添って看護したが、実はマディラ島での療養のように深刻な病状ではなく、エリザベートは元気だった。 つまりコルフ島への旅の真の目的は、エリザベートの療養(静養)ではなくギリシャ王オソン1世(1815-1867年:在位1833-1862年)とフランツ・ヨーゼフ皇帝の会談のセッティングだったと想定される。 【ギリシャ王オソン1世】 オソン1世はフランツ・ヨーゼフ夫妻の従兄だった。 皇帝の母ゾフィーとシシィの母ルドヴィカ姉妹の兄ルドヴィヒ1世の息子がオソン1世で、オスマン帝国からギリシャが独立した際に列強各国の推薦でオソン王が初代ギリシャ王に即位した。 しかしイングランドとオスマン帝国の通商関係が強固だった為、クリミア戦争の際にイングランドはオスマン帝国と同盟を結んだが、オソン1世はロシアとの関係を重視しておりクリミア戦争に参戦しなかったため、1860年代になると、イングランドはオソン1世を退位させようとしていた。 そこでオソン1世が従弟のオーストリア皇帝夫妻に支援を求めて、コルフ島で会合をもったのだろう。 しかしオーストリア帝国はサルデーニャ戦争の傷跡が治っておらず、デンマークやプロイセンがオーストリアに牙を向けていたので、フランツ・ヨーゼフ皇帝はギリシャへの軍事支援を丁重に断った。 そして1862年6月に、ギリシャでクーデターが起きた。 【追放されるオソン1世】 エリザベートの従兄オソン1世は退位せざるを得なくなりギリシャを逃れ、故郷バイエルンに亡命した。 するとイギリス、フランス、ロシアは、デンマークから新しい王を迎え入れた。 オーストリア皇帝夫妻がコルフ島を訪れた1861年11月は、オソン1世のギリシャ追放の半年前だったので、オーストリア皇帝がギリシャのすぐ脇にあるコルフ島に出掛ければ、従兄のオソン1世と会談をしない訳がない。 (3)バイエルンでの療養 エリザベートは1861年にコルフ島で療養した後に、年末にヴェネツィアを訪れ、そこで年を越した。 1862年4月に母ルドヴィカがバイエルンからヴェネツィアまでエリザベートの見舞いに来た。 その時、ルドヴィカはエリザベートの健康状態がすぐれないのに気づいた。 1862年5月になると病状は悪化し、足に水がたまる水疱瘡となり歩けなくなってしまっていた。 そこでバイエルンのフィッシャー医師に診断させると、鉱泉での静養を進められた。 その為ウィーンには帰らず、バイエルンのキッシンゲン鉱泉で静養することになった。 【キッシンゲン鉱泉】 エリザベートが故郷バイエルンで温泉療養をしていた時、従兄のオソン1世が1862年6月に、哀傷と焦燥した面持ちでバイエルンに戻ってきた。 丁度この頃、エリザベートも温泉療養でバイエルンに滞在しており、フランツ・ヨーゼフ皇帝も7月に見舞いにバイエルンを訪れた。 エリザベートは、水疱の治療という名目でバイエルンに滞在したが、バイエルンで、フランツ・ヨーゼフ皇帝、エリザベート皇后、バイエルン王マクシミリアン2世、オソン1世、母ルドヴィカがお忍びで一堂に介したのは言うまでもない。 【バイエルン王マクシミリアン2世】 恐らく、今後のバルカン半島対応のオーストリアとバイエルンの連携に関する議論がなされたのだろう。 エリザベートの旅は、療養、観光、スポーツ、里帰りの目的とされていても、殆どが公用を兼ねていた場合が多い。 エリザベートはスパですぐに回復し歩けるようになったが、姑ゾフィーは子供たちの養育権を放棄しようとせず、また帰国するという噂が立つとウィーン市内が大騒ぎになるため、一旦バイエルンの実家ポッセンフォーフェン宮殿で自分の家族とより多くの時間を過ごすことになった。 ポッセンフォーフェン宮殿はエリザベートの両親の別荘だ。 父マクシミリアン伯が汗水垂らして働かなくても、膨大な屋敷を二つ所有し保持していた。 だから、父は本家に怪しまれるような危険を冒して公職に就くことを避けた。 2) 里帰り オーストリア=ハンガリー帝国が建国され、殆どハンガリーで滞在していたエリザベートは、1872年に姑ゾフィー大公妃が死去すると、時々、実家のバイエルンに里帰りするようになった。 丁度、その頃、妹ゾフィー・シャルロッテが療養で実家に戻ってきていたので、エリザベート姉妹たちは、末妹ゾフィーに会いに毎年バイエルンで集うことになった。 【破談前のルートヴィヒ2世とゾフィー】 バイエルン訪問の際に、エリザベートが滞在した場所がストラウチ・ホテル(Hotel Strauch)で、現在では『ホテル・カイザリン・エリーザベト』と改名している。 一回3~4週間の滞在で、1870年から1894年の間に、合計で24回も宿泊した。 超豪華なホテルではなく、日本の天皇が宿泊するホテルよりも、はるかに小さな建物だった。 3) 公務 (1)二度目のハンガリー訪問 1857年にエリザベートは親善の目的で、初めてハンガリーを訪れた。 しかしその際に長女ゾフィーが疫病で死去したので、ハンガリーには悲しい思い出しかなく、また姑ゾフィーからオーストリアから出国することを禁じられた。 その為それ以降、ハンガリーの地を踏むことができなかった。 しかしデンマーク戦争が1864年10月30日に終戦を迎え、プロイセンがオーストリア領になったホルシュタインを奪い取ろうと虎視眈々と狙うようになると、ハンガリーではオーストリア帝国からの独立機運が高まった。 もしプロイセンとオーストリア間で戦争が起こり、オーストリアが敗北した際に、ハンガリーがオーストリアから離反すると、オーストリアは亡国の憂き目にあう。 従って、ハンガリーとの融和が重要課題となったが、フランツ・ヨーゼフ皇帝とゾフィー大公妃はハンガリー貴族を虐殺したため、ハンガリーから恨まれていた。 そこでハンガリー貴族を融和させるために、皇帝フランツ・ヨーゼフからエリザベートに、ハンガリー貴族を懐柔するよう命じられた。 ハンガリー嫌いな姑ゾフィーはハンガリー貴族との和解に難色を示したが、フランツ・ヨーゼフ皇帝の意思は変わらなかった。 そこでエリザベート皇后は、バイエルン時代の幼い頃から顔見知りだったハンガリー貴族アンドラーシに連絡をとり、ハンガリー貴族との折衝をウィーンで秘密裏に開始した。 ハンガリー貴族との交渉のために、エリザベートの外勤女官にハンガリー貴族のイーダ・フィレンツィを採用した。 【真ん中の女性がイーダ】 イーダもハンガリー貴族との人脈があったので、当初のハンガリー貴族との連絡役はイーダが担当した。 1865年12月21日になると、アンドラーシ伯爵はハンガリー議会の副議長に就任した。 そして、1866年1月に、エリザベートから招待され、ハンガリー議会の代表団の副団長として、42歳のアンドラーシ伯爵はウィーンに表敬訪問した。 代表団は、ウィーン宮廷で、フランツ・ヨーゼフ皇帝とエリザベートと謁見すると、エリザベート皇后の28歳の誕生日を祝福した。 その際の同盟強化交渉は不成立だったが、フランツ・ヨーゼフ皇帝はハンガリーとの同盟強化が不可欠だと考えていたので、1866年3月にエリザベート皇后を伴いハンガリーを密かに訪れた。 この会合のセッティングは主にエリザベート皇后が担当した。 そこでハンガリーの要求書を受け取ると、静かにハンガリーを立ち去った。 これがエリザベート皇后の公式の二度目のハンガリー訪問だった。 (2) 同盟協定交渉 普墺戦争は1866年6月14日に始まり、8月23日に終戦を迎えた。 オーストリア帝国が敗北すると、プロイセンはハンガリーに触手を伸ばしてきた。 この頃ハンガリーではオーストリアからの独立を唱える一派が勢力を伸ばしてきた為、オーストア皇帝は焦り、ハンガリーとの同盟強化に舵を切った。 またその頃になると、エリザベート女王は姑ゾフィーからルドルフ皇太子の養育権を取り戻していた。 1864年、ゴンドルクールは姑ゾフィーの指名でオーバーホフマイスター(皇太子の執事の廷臣)となり、わずか6歳のルドルフ大公の家庭教師になった。 ルドルフは生まれたときに大佐に任命され、兵士としての教育を受けることが定められた。 【ゴンドルクール】 この目的のために、ゴンドルクールは、水治療、ピストルの発砲で目を覚ます、動物園で夜を過ごす、何時間もの訓練などの軍事教育を施した。 そこで、彼の部下のヨーゼフ・ラトゥールが勇気を出して、外国にいた母親のオーストリア・ハンガリー帝国皇后(シシィ)に、これらの教育方法が息子に与える悪影響について知らせた。 【ヨーゼフ・ラトゥール】 エリザベートはウィーンに戻り、虐待の現場を目にし、ゴンドルクールに最後通牒を発した。 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と姑ゾフィー大公妃も虐待の共謀者だったので。エリザベートの提言を無視することが出来ず、1866年にゴンドレクールを教師の座から解雇したが、軍の階級を昇格させた。 ゾフィー大公妃が任命したゴンドレクールが皇帝氏を虐待し神経衰弱にさせたので、ゾフィー大公妃から子供たちの養育権が剥奪された。 その為、エリザベートは子供たちの養育権を取り戻し、子供たちを連れて外国に出向くことができるようになった。 エリザベートは普墺戦争の翌年の1867年になると、次女ギーゼラとルドルフ皇太子を連れハンガリーに頻繁に訪れ、ハンガリーとの同盟交渉を行った。 その努力が実を結び、アウスグライヒ(妥協:オーストリア=ハンガリー二重帝国)が成立し、1867年6月8日にフランツ・ヨーゼフはハンガリー王に、そしてエリザベートはハンガリー女王に即位した。 そしてフランツ・ヨーゼフとゾフィー大公妃はオーストリア帝国を統治し、ハンガリーは皇帝とエリザベート、アンドラーシで統治するようになった。 皇帝夫妻がハンガリーの統治を潤滑に進めるように、ハンガリー政府はグドゥルー宮殿を夫妻に贈呈した。 【グドゥルー宮殿】 そしてエリザベートはハンガリーで三女マリー・ヴァレリー・マティルデ・アマーリエ・フォン・エスターライヒ(Marie Valerie Mathilde Amalie von Österreich,:1868年4月22日 - 1924年)が誕生し、彼女はハンガリーの王女と呼ばれ、ハンガリー人から愛された。 【マリー・ヴァレリー】 小説『邪馬台国ラプソディ』著者 川 鍋 光 慶
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